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Vol.13

 

目に焼きつく何かを映すもの


 

「はい、大きく息を吸ってー、はい、そのまま息止めてー」と声がかかり、バシャン、という撮影音。撮影台が下がり、扉が開く。年度初めの健康診断で、レントゲン写真を撮った。撮影室を出ると、撮影したばかりの写真が画面に表示されていてちょっぴり驚く。肺を撮ったものだけれど、胸の中でもある。ほんのりギョッとしたが、ちゃんと人間の身体を持っているのだという証明書を見たようでもあり、そんな妙な実感を持つこともできた一瞬だった。レントゲン車を出ると、たった一枚写真を撮っただけなのに、年度初めの大きな行事を終えたようで一気に4月が始まった気持ちになった。ほんのつい先日まで、年度末だったのだけど。
年度という区切りが身近に感じられるようになったのは、ここ数年だ。長い間、年末はあっても年度末はなかった、そのような一年のサイクルだった。31日といえば12月だったけれど、今は3月31日の方が断然存在感が増している。たぶんそれは、3月の方が人との別れが嵐のように目まぐるしくやってくるからだと思う。そして、忙しくて慌ただしくて振り回されることも多いから。けれど、しかしけれども、嫌いではない。おそらく、人との別れは、人あってこそ、あるものだから。
人はいつ頃から、「別れ」を理解するのだろう?ふと、そんなことを思った。先日観た『アメリと雨の物語』という映画の中にも、二度、別れのシークエンスがあったことを思い出す。この映画は、アメリという女の子の、生まれてから3歳になるまでの人生における出会いや別れを描いているものだけれど、アメリは3歳の時に「別れ」を理解する。理解し、ゆえに、それを受け入れられない「いやだ」という気持ちが生まれる。実は映画では二度、別れが描かれているが、一度目の時にはアメリはまだきちんと理解できていない。それゆえにふんわりとしているが、二度目の時には気持ちがはっきりしている。
気持ちがはっきりしている、というのは、つまりはっきり「描かれている」ということだ。はっきりというのは、表情もそうだが、印象的なのは泣き方、声だ。自身の胸の中の気持ちがよく分からない時の声から始まり、泣きながら自身の気持ちを理解していく、そんな泣き方。かつて誰もがこのような泣き方を、人生の初めの頃に経験した覚えがあるのではないだろうか、聞けばそう思う泣き方だ。シーンを見ていたら、感情移入と懐かしさが混じった不思議な気持ちになった。それにしても、このような泣き方は演技で再現するのは難しい。ある程度の年齢に達すれば可能だけれど、幼い子にはほぼ、不可能だと思う。しかしこの映画はアニメーションであり、だからこそ可能にできた。と、そんなふうに思う。アニメーションの良さに、感じ入るシーンだった。
映画では、声も印象的だったが、画そのものも印象的だった。アメリが初めて出会う、自分自身の外側にある世界。例えば雨、雨という雫、雫という水滴。それらを映画はアメリの瞳という想像力を通した形で描く。時に度を超えた鮮烈さを持った筆致で、鮮明に。見ていると、映画というものはきっと、目に焼きつく何かを映すものなのだと思えてくる。
そしてそのアメリの想像力を開花させたのは、アメリが出会った家政婦さんである。アメリの瞳を通した想像は、時々やり過ぎな感じも受けるけれど、しかしその鮮烈さが後にアメリ自身を救い出すことにもなる。何が人を救うかということに決まった答えはないけれど、誰かとのやりとり、それにまつわる鮮烈な記憶は、素敵な思い出となりお守りになる。映画はそれを示しているように思えた。
 

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detail
2026年3月22日 映画「アメリと雨の物語」@吉祥寺オデヲン

information
映画「アメリと雨の物語」--- 2026年3月20日から全国ロードショー---公式HP(https://littleamelie-movie.com)

 

 

 

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©️ Asako Hyuga