Vol.15
シネスイッチ銀座のシアター2の座席で
座席から立ち上がるのに、大きく大きく息を吐かなければ、立ち上がれなかった。エレベーターで1階に降りて、シネスイッチ銀座を出る。17時を過ぎていたけれど、空はまだ明るかった。映画館を振り返りながら、シネスイッチ銀座らしい映画だったなあと思った。「”センス溢れる”だけではない」というのが私の勝手な、シネスイッチ銀座のセレクトに対する印象だ。センスの他に何かもう一つ、セレクトした理由がどこかにある。それがシネスイッチ銀座というミニシアター。だからここで観た後は、何かすごく考えながら駅まで歩いて行くことになることが多い。ほとんど腕組みしながら歩いて帰る。今回も、腕組みをしながら帰ることになった。観たのは、『エレノアってグレイト』という映画だ。
この映画で描かれるのは、親友を亡くした老婦人と母親を亡くした学生の出会いと、育まれる年の差をこえた友情だ。それが、老婦人がついた“今日だけの嘘”から始まってしまった騒動に乗せて、語られる。というのが、言ってみれば物語のA面。しかしこの映画にはB面となるもう一つの友情が存在している。老婦人(エレノア)と、亡くなった親友(ベッシー)との間の友情だ。エレノアがつく“今日だけの嘘”は、ベッシーがエレノアにしか打ち明けなかったホロコーストの体験を自分の体験として語ってしまうというものである。
登場人物の過去を扱う時、映画には二つの方法がある。回想シーンで描く方法と、打ち明ける姿を撮る方法だ。この映画は、打ち明ける姿をフィルムに焼き付けた。打ち明けるのは、ベッシーだ。エレノアという人物を通して、観客はベッシーを、エレノアという親友に向かってだからこそ話せたベッシー自身の過去を、見聞きする。ベッシーの過去を、映画は一切映像にしない。しかしその過去が、どれほどベッシーを悲しませ、苦しませてきたのか、打ち明けるベッシーを見れば分かる。映画は、ベッシーの過去に侵入しない。そうすることで映画は、この不思議な二重構造というアイディアで、ベッシーの中の、何重にも閉ざされた扉を開かせた。そして映画を見ている私たち観客の中に焼き付けた。
人間の、心の”奥”というのはいったいどこまであるのだろう。打ち明けるベッシーの姿を見ながら思った。ベッシーは自身の心の中の、途方もないくらい遠くの遠くまで行っている、そのことが、見ていると、痛いほど伝わってくる。ベッシーの心の奥の深さは、私自身が測れるところを遥かに超えている、ということだけが分かる。それは、途方もないことであり、途方もないシーンだった。そしてそのベッシーの命綱を握っているのは、エレノアだ。エレノアが握ってくれているからこそ、ベッシーは奥まで行けた。行って、そして帰ってこれたのだ。
見終えて、しばし立ち上がれなかった。座席から立ち上がるのに、大きく大きく息を吐かなければ、立ち上がれなかった。ずしりと重たい映画だったかと言えば、そうではない。逆に、明るさと柔軟さを持った映画だった。しかし、この映画で見たベッシーを、おそらく忘れることはないだろうと思った。最後の柔らかな笑顔も含めて。この映画は、「エレノアがついた”今日だけの嘘”が巻き起こす」一本だ。そんな、エレノアによって、私も大変な一本を見てしまい巻き込まれ、それゆえに立ち上がれなかったのだ。そして、エレノアが“嘘をついてしまった”理由、その理由によって、エレノアの中の「ベッシーを失うことの辛さ」がどれほどであったかが、分かる。唸る、しかない。シネスイッチ銀座のシアター2の座席で、しばし唸った。
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