Vol.5
愛とも友情とも約束とも違う
店の中を覗いてみたら、思ったほど変わっていなく、メニューも変わっていなかった。新宿駅東口地下の改札を出て左に行くとある、ビールとソーセージとコーヒーのお店。数年前までは、よく寄ってホットドッグを食べていた。けれど、コロナ禍で足が遠のいてしまい、そのままになってしまっていた。朝10時15分からの映画を観に新宿に来てみたが早く着いてしまい、ふと気が向いてお店の前まで行ってみたら、9時台だというのに賑わっていて安堵した。
来た道を戻り、そのまま地下道を通じて映画館まで歩いていく。1階のエレベーター乗り場に通じる階段の壁に並ぶ映画ポスターを見ながら、一段一段上がる。『本日公休』と書かれたポスターは踊り場にあった。“今日はお休み”である理髪店を舞台にした映画だ。
映画が始まってしばらくは、時間が行ったり来たりする映画の構成と、思ったより賑やかに展開される台詞の多さに少し翻弄されたけれど、ふと気がついたら見惚れていた。見惚れるというと、いつもは撮影や照明、美術や編集といった視覚的な要素に対してだが、この映画においては、人間関係の配置に見惚れてしまっていた。
この『本日公休』という映画には、主人公と呼んでも問題ないほどに存在感のある登場人物が、主人公の他に2人いる。主人公の娘である次女と、次女の元夫だ。物語構成も、主人公を含めた3人を軸にしながら結構込み入った構成になっている。次女の元夫、というユニークな距離感の人物の入れ込み方に、しばしば見惚れた。
さて映画は、込み入ったまま始まり、進んでいく。しかし、このまま行くのかなと思い始めた中盤過ぎて後半に、この映画の主人公である理髪店の女主人の、その気迫に圧倒されるシーンが待っていた。
主人公である理髪店の女主人は、“今日はお休み”の日に、かつての常連客で今は寝たきりになってしまったとある人物のもとへ、出張散髪に出かける。観ている私たちも、女主人の三人の子供たちも、なぜそこまでするのか理由が分からない。しかし、観ている私たちは、女主人の中にあった理由を知り、彼女の思いを目にすることになる。
恩というもの、それを感じていた心情というものを、映画の中でしっかり観たのは、もしかしたらこの映画が初めてかもしれない。そんなことを、女主人とかつての常連客との再会シーンを観ながら、思わずにはいられなかった。彼女は非常に困難な姿勢で散髪をするのだが、一心でやり切る。そしてその間、かつての常連客が自分にしてくれたことを、その家族に話して聞かせる。涙は目に溜まるが、彼女はそれをこぼしたりはしない。散髪を終えるまでは。その気迫に、その姿に、彼女が感じていた恩の強さがどれほどだったか、分かる。映画なのだから、言ってしまえば演技なのだが、そのはずなのだが、気迫は本物、そのものであり、その強さに、スクリーンを超えて圧倒された。
愛とも友情とも約束とも違う、そして損得を抜きにして彼女が駆けつけた理由。彼女の子供たちは、映画の最後まで、母が出かけた出張散髪の理由を知らない。そしてこの先も、知らないままなのかもしれない。そこは、本作の稀有な点にも見えた。人の中には、他人には見れない思いというものが、あるものなのだ。そのことを、そっと見せてくれたような映画だった。
映画はこの女主人の強いシーンを一つ残して、再び込み入った構成へと戻っていく。ふと、この込み入り具合はこの一つのシーンのためにあったのではなかろうか?という疑問が湧いた。しかしそうではなかった。登場人物たちは皆、望んだようにはいかなかったり、思ったように少し転がったりしながら、それぞれ新しい人生を選んでいく。次女も、次女の元夫も、長女も、長男も。誰かの人生の1シーンは、別の人の人生の違った1シーンでもある。思ったようにいくことも、思ったようにいかないことも、どちらもあるのが人生なのだ。映画を観終えると、そんな気持ちにもなった。
映画館を出てみたが、余韻が抜けないので久しぶりにビールとソーセージとコーヒーのお店に寄った。数年ぶりにそのお店のホットドッグを食べて、少し強めの濃いコーヒーを飲んだ。……が、なかなか余韻は抜けてくれなかった。そういう時は仕方がない。そういう時もあるものなのだ。今日はこのまま映画を引きずりながら過ごすことになる、そのことを幸福に思いながら、コーヒーを飲み干した。
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